信心・御利益体験記

大正四年一月、私はインフルエンザから肺炎になり、更に腸満を併発し重態になつた五人の医者に診てもらつたがどの医者も『 この病人にはもう薬はいらぬ。本人の言うままにさせて置くがよい。全快の見込みはないのだから・・ 』と申しました。

 私は家が真宗ですから南無阿弥陀仏を唱えて居たのですが、いかほど念仏を唱えても、御浄土詣りが出来るという安心を得ることが出来ませんでした。その時思いついたのが弘法詣りのことです。

 弘法様は現世利益のあらかたな有難いお方と聞いていましたので、どうせ死ぬのならばお浄土詣りの出来るよう、弘法様にお祈りして廻る決心を致しました。
そこで母
(むう)が隣村の弘法様に、私の弘法詣りについてお伺いに詣つて呉れまし たところ『守つてやるから、お詣りせよ 』とのおさとしで御座いました。

 それで旧三月十九日の朝四時立ちで、思い立つた弘法詣りに出立致しました。其時父(源三郎)が『 角や(角之右エ門)行くか。お前もかねて覚悟してお詣りに行くのだろうが、今日は十九日だ。家の敷居をまたいで出るからには、何処で死んでも今日がお前の命日だと思つて、とむらつてやるぞ。だから宿に着いたら直ぐ手紙を出せ。手紙が着かぬようになつたら、死んだと思つて家では葬式のまわしをして待つて居る。一緒にお詣りする母親は、早く骨にして持ち帰えれ 』と言いました。そして母に、水を持つて来い、と父が言いましたので母は茶碗に水を汲んで来ました。

すると一口飲んで『 それ角や、飲め! 』と言われました。『これが世に云う永の別 れの水盆か』と思うとハラハラと涙が流れましたが、その落つる涙を打ち払つて仏壇にお詣りし『左様なら』を申しました。

 そして母親と二人、家を出立して、一里の道を七時間もかかり、十一時発の汽車で熱田駅から立ちました。車中で道伴れも出来、東海道を東へ三河三弘法へ向かいました。

 三河と尾張の境川までゆくと、早や日も西に傾いてきました。ここで車中の道伴れと別れて母上と二人、汽車を下り、旧東海道を右に折れて農道へはいりました。二番の霊場、一ッ木の寺の裏あたりまで来ましたが、もう全然歩けません。仕方が無いのでイザツテ行きました。この時、母親は私をうしろよりのぞきこみながら、一心にお念仏を唱えていました。この母親のお念仏は『 さぞ辛かろう。づつなかろう。代れるものなら代つてやりたい。喰へるものなら喰べて仕舞いたい 』といいたげな、子を思うなさけのこもつたお念仏で、その一声、一声が、私の身を電光のように透き通しました。そして幼い時から、母親は斯様な思いで私を育てて下されたかと、骨身に沁みる感恩の気持ちになりました。そこで私の思う様は、『 死は覚悟で来ました。どうかあなたの顔をおがむまで引き寄せたまえ 』と弘法様に一心に願いました。ただそう願う一心でありました。

 こうして一ッ木の寺までたどり着き、像によじのぼつた時は、嬉しさというか、悲しさというか、ハラハラと涙が落ちて、像を濡らしました。この時、おくりさまが『若いのにお気の毒だ。すぐ前が宿屋です 』と門前の宿まで送つて下さいました。

宿に入つてから母親に『 長らくお世話になりまして有難う御座いました。お父さん、兄さん、姉さまによろしく伝えて下さい。私は今夜お浄土に詣りいたします 』と述べて床に就きました。

 翌日、目がさめて『 あらイキがあつた 』と心から嬉しかつた。その時、足はいくらか立てるかと、床の上で、しをふんでみましたところ、立てる、 歩ける。 私は天へも昇る心持で、宿の表へ出ました。宿の人たちが、『 昨日はイザツテ来られたのに、今日の足どりの良さはどうだ 』と驚き、祝つて送つてくれました。他の泊り客、その他も『 昨日のイザリが立つた、立つた、立つた 』と大騒ぎでした。

 私はこの時、信心すれば、このように一夜にして足の痛さも治る、と言わぬばかりに大手を振って御礼詣りをして、一番の知立、三番の一里山、それから知多新四国第一番の札所とお詣りいたしました。

 この間、お巡りさんが、おこもさんの弁当を靴でけり、ご飯が顔にかかつてとれないため、帽子を深くかむつて懺悔詣りの巡拝をして居るさまを見ました。

 それよりまた足が痛くなつて、新四国の第二番より第三番までイザリ、更に第十一番より再十二番までイザリ、上半田の第二十番の札所にお詣りしてから、親戚に立ち寄りましたが、その時、いのちと頼る大切な杖が無くなりました。半日もかかつて探しても出て来ません。仕方なく親戚に一泊して出発したのですが、そうしたことかその日は、病気はどこかえ飛び去り、他人の荷物まで持ち運ぶ元気さでありました。この日は、半田より師崎までお詣りの足をのばして師崎で泊まりました。

 この日、道伴れの人の荷物を運ぶ私に、皆様が『 あなたは、イザリの立つたお人で、お大師さまが乗りうつつてみえる。えらいお方だ。だから荷物など持つてもらつてはいけません。 』と口々に言われましたが、私は『 そのようなことはない 』と言って、かまわず他人の荷物を運んだのでした。

 それより西浦を四日かかり、大高で打ち終わつて、夜の八時頃、無事になつかしい家へ帰りました。ところが師崎から手紙が出してないために、家では葬式のまわしをして待つているという次第でありました。

 それで病気はスツカリ全快したかと思いましたが、なかなか全快どころか、それよりまた七ヶ月も病床について居りました。

 しかし生命のあるのは、お大師様のおかげであると、深く御恩に思いましたので、大正五年旧一月二日、また思い立つて、朝立ちで、伊勢神宮と西国三十三ヶ所、そして高野山詣りへと出立いたしました。

 那智山より山づたいに三日間、腰まである雪を、四人の同行と歩るいてのお詣りでした。この時、行つても行つても、人一人にも会えない雪中で、金剛杖を力に、追分になると杖立て南無大師様と、一人、一人が唱え、杖を立てると、四人の杖がみな同じ方向にと、たをれるのです。まことに不思議というほかありません。それから高野山にお詣りし、無明の橋を渡ると、足の裏前部が、豆だらけで、痛くてたまらなかつたのが、ピタリと痛みがとまりました。

 それからまた奥の院にお詣りした時、香炉鉢の中に風鈴を置き忘れ、気がついて探しましたが出て来ません。お寺や警察に『 もし出ましたらお願いします 』と尋ねまわつて二日目に、慈光院まで降り、お詣りして帰ろうと、御庭まで出てくると、後方より『 おい、おい 』という呼び声がするので、うしろを向くと、誰も居ない。歩きかけるとまた『 おい、おい 』と呼ばれる。『 おいらか? 』と、あとをふり向くと人影は無いから、また出かけると『 おい、おい 』と今度は大声で呼ばれる。余り声が大きいので『 おいらを呼んでいるのか、馬鹿にするな 』とふり向くと、今度は私とスレスレのところに白衣のお遍路さんが立つている。『 何ですか 』と尋ねると『 良い所で会つた。お前さん、風鈴を忘れたろう。持つて来てやつた。』と云つて私の手に渡してくれました。『 ここで会えなければ、四国で渡すつもりであつた。お前さん達は、粉河寺の方へ下るだろうが、わたしは用事があるから、こちらへ行く。また本四国で会うぞ 』と云つて右と左へ別れましたが、その足の早いこと、たとえようがないほど早く行きました。

 西国巡礼をすまして、今度は大阪より船に乗り、四国に上陸し、またお遍路を続けて、南光坊泰山寺、仏遊寺、国分寺、と参詣し、楠木村六軒家より十一町の所に、臼井の清水が湧き出ています。

 この臼井来迎の井戸の中に五色のお光が映り、その中に十三仏がおがめるとのことに覗いて見て、『 目高魚がいる 』と云いますと、寺の僧が『 うしろの腰掛に腰しかけて一心にお詣りしなさい。五色の御光がうつつて十三仏さまがおがめる 』と申されました。

 そこで私は、さんげ、さんげして心経を読みました。するとそこえ二十一回、お詣りしたというお遍路さんが『 この位、有難い所はない 』と云うて念珠をスリ合わせ、読経しはじめて『 それそれ若い衆、これがおがめぬか、正面には不動明王、その前には地蔵大菩薩、右の方にはどなた様、左の方にはどなた様、それからそれから・・ 』と読みあげますので、その時、『 不動明王様と地蔵様はおがめますが、あとは手の蔭のような影しかわかりません 』と私が申しますと『もつと御修行をしなさい 』云うて立ちました。
日が暮れようとしているので私たちも出立しようとしている時、この楠木村の臼井来迎の井戸の所で、一夜善根宿をお願いした家の主人と娘とが巡礼してこられ、くしきめぐり合いに『 今夜は宿をともに取りましょう 』と宿をとりましたが、泊り客が多数で夜具が足りず、寒くてねむれぬので、夜半の十二時に宿を立ちました。その時、夜道とて道しるべの石を頼りに歩るき出しますと、どこからともなく一人の人が出てこられて『 お前方早立ちだな、道案内をしてやる 』と先頭に立つて歩るいてゆかれ、その後をついて行く中に夜は白々と明けて来ました。『 それは弘法大師様に送つてもらつたのだ 』とあとで云われましたが、本当にそうだつたのででしょう。その方は知らぬ間に見えなくなつて仕舞つたのです。こういう神秘な奇蹟が巡礼・遍路には度々顕われるのであります。



碑文にも書きましたが、お遍路や巡礼を、一人でも多く、そして度々行われることを念願して、この体験記を終わる次第であります。    合掌





 
   昭 和 四 十 四 年 秋 の 佳 き 日

        名 古 屋 地 蔵 講  々 元

大野 角之右ェ門



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